窓のむこう

現在43歳。 10年前の夏に脳梗塞で死の淵を彷徨い、95%命は助からない、 生還できても植物人間になるという絶望的な病魔に犯される。 集中治療室に10日間、1ヶ月後にリハビリ病院に転院し、 奇跡的に2ヶ月後に退院。 入院生活とリハビリから僕が見たもの。

2007年8月18日(土)午前3時、脚がふるえ、そして僕は倒れた…。

その日は午前3時頃起床した。
前日から原因不明の耳鳴りと薬の全く効かない激しい頭痛が続いていた。
身体がおかしい。ただの耳鳴りじゃないなさそうだ。。
今日の撮影の仕事が終わったら病院でも行こうかな。
そんな事を思いながら一服後にシャワーを浴びに風呂場に向かった。

シャワーを浴びだして突然その症状は起こった。
突然脚が勝手にぐらぐらと震えだして立っていられ無くなったのだ。
立っている力が足から奪われて行く。
座り込んでもまだ脚が震える。
行き場を失ったシャワーを手に持っているのがやっとだった。
最初は軽いめまいだと思ったがその震えは段々と大きくなっていく。何だこのめまいは!
こんな嘘のような恐怖の世界が自分の身に起こる事が信じられない。
突然何かに突き飛ばされ、別世界へと深く沈み込んで行く。

家の中にかんなが居た事が幸運だったかもしれない。
「かーー。。かー。。」
大きく叫ぼうとしても声が出なくなっている。
必死に声を絞っても「かんな」と名前が言えなくなっている。
こんな恐怖の世界が現実に僕に身に起ころうとは。
脚の震えが止まらない。大きく叫ぼうとも声が出ない。

かんなが風呂場に慌てて入って来て僕の名前を何度も大きな声で叫ぶ。
「よしくん!!よしくん!!!」
力の全く入らない僕を彼女は抱きかかえる。腕はだらりと肩からぶら下がっている。
(そんなに大きな声を出さなくても大丈夫だよ。嘘だから。
本気を出せば起きれるよ。ほら今起きるから。)
そんな事を思っても全く身体が動かない。身体に力が全く入らないのだ。
かんなは僕の手から離れた自分にかかるシャワーを止め、
僕を風呂場の床に寝かせ血相を変えて外に出て行った。
きっと一階に住んでいる家族を呼びに行ったのだろう。
僕は話せない。動かない身体で床に転がり呼吸する事で精一杯だった。

ガラスのように透き通った静寂。
その時はとても静かだった。
時間は長く感じられた。
呼吸ってどうやるんだっけ。
呼吸ができない事を考えたら本当に死んでしまいそうだ。
きっと全ての終末って、こんな感じなのかもしれない。
何故突然倒れたのだろう。
僕は沈黙の暗黒世界に深く沈んで行くようだ。
ここはやり直しが効かない現実の世界なのに。

風呂場のドアにもたれ掛った僕を押しのけてかんなが戻ってくる。
舌を噛みそうな僕の口に手を入れて必死に制止している。
「よしくん!!舌噛まないで!!よしくん!!」
舌だけは噛まないように自分に言い聞かせていた。
強くそう思わないと勝手にあごが舌を挟んでいく。

後から母親が風呂場に慌てて入ってきた。
「かわいそうに…」
力無げにそう言うと、裸の僕の身体に毛布をかけてくれた。
体温を次第に奪われて行くので、これはとてもありがたかった。
何せ寒くても声を発する事が出来ないのだ。

そこに妹の奈緒子も入って来た。
「だから言ったのに!」

「浄波」という代替医療の治療員である妹は
最近僕の身体を気遣って頻繁に「治療」をしようとしていた。
しかし「治療」の効果なのか、次の日に非常に眠くなり寝坊する事もしばしばだったので、
仕事が落ち着いたら頼もうと考えていた。
数分足りとも余裕の持てない、そんな過酷な仕事の状況だったのだ。今考えたらぞっとする。

もう少し余裕を持って仕事をしていたら、こんな事にならなかったかもしれない。
妹の言葉に耳を傾け「治療」していれば、こんな事にならなかったかもしれない。
後悔先に立たず。身を以てこの言葉を体験する。

「意識があるならまばたきして」
妹の問い掛けにゆっくりと眼を閉じるのがやっとだ。

突然救急隊員が家の中に入って来る。救急車がようやく到着したようだ。
家族に何やら質問している。
この時、こういった修羅場を仕事現場としている救命隊員の人間の体温を感じた。
僕が倒れて狂乱したかんなとは対照的に妹の奈緒子は努めて冷静だった。
最近の食べ物を救急隊員に問われても
「食べ物は良くないと思います。」
暫く会ってなくてもちゃんと分かってるじゃないか。
僕の最近の食事といえば昼はコンビニのおにぎり1個、遅い夕食は専らラーメン屋だった。

動けない裸の僕は毛布や風呂場の脚ふきに包まれて救急車に運ばれた。
家から搬出される前に少し意識が戻り片言喋れるようになったが、
その時も気にしていたのは仕事の事だった。
仕事場に遅れる事を伝えなくては。。
携帯電話が必要だ。
運ばれながら玄関先で片手を耳にあて、必死に電話をするポーズをとっていた。

救急車の中で意識をまた少し取り戻した。
「ちゃんと…分かってる…から。ちゃんと…聞いてた…から。」
声は小さく途切れ途切れで自分の声みたいで無いけども、
幸い周りの人を判断できる意識だけはあった。
車内にはかんなと妹が同乗している。
救急車は家の近くの関東病院に向かっているようだった。

病院に着き救急病棟に搬送されると、その日は脳外科のK先生が救急の宿直だった。
この時僕は意識をほとんど取り戻し、医師の質問にしっかり答えていた。

倒れた時の状況。
数日前に血尿が出て、泌尿器科にかかった事。
事細かにここ数日の事を説明した。
しかし、このことが後の状況を悪化させた。

自分としては身体の何処かに必ず原因があるはずで、それを探り当てて欲しかった。
しかし僕の過去のカルテを2、3人の医師で確認しただけで、
今は意識もはっきりとしているし、特に原因と思われるものは見付からないようだ。
今回は一時的な発作のようなもので、今後も同じような症状が起きるかもしれないという。
念のため「MRI」という脳の中を画像解析するレントゲンのようなものを
来週の月曜日(この日は土曜日)に受けて下さい、と言う事だった。
今すぐ撮って欲しかったが、どうやら予約の必要があるらしい。

部屋が満室で入院もできず、細かな検査さえ無く、どうやら家に帰されるようだ。
そんな馬鹿な!ちゃんと僕の身体を調べてくれた!?
この時はやはり身体の異常を知らせる要因は何ら見つからなかったようだ。
後に「MRI」も撮影してないのに分かる訳無いと思ったが。。

家族に持って来てもらった部屋着に着替えているとき少しふらつくような感じがあったが、
父に運転してもらい車で帰る事になった。
車の中でサンダルを履いていたのだが、右足だけすぐ脱げてしまう。
今から思えばこの時既に梗塞(血管の解離)が始まっていたのだ。

今日は仕事に行こうか、状況を説明して休もうか、そんな事を考えていたら家の前に到着した。
少し気分が悪いなと思いながら車外に出ようとしたときまた突然喋れなくなった。
介助しようとしたかんなに身体ごともたれ掛り、身体にも力が入らない。
「・・・・・」

かんなが抱きかかえられながら、
「またおかしくなった!」
「病院に戻ろう!」と妹。
この時病院に戻らず家で横になっていたらと思うとぞっとする。

2007年8月16日(木)

その日3箱目の煙草の封を切った。
独り会社のベランダから、美しい花火の映る神宮の夜空をどんより眺めていた。
あの光の下で会社の仲間達はビール片手に楽しんでいるはずだ。
「俺も行きたいな。。」
毎年神宮の花火大会は、会社のPCの前でかすかな音だけを耳にしていた。
実際に現地に行って花火を堪能したのは会社を設立した初年度だけだった。

暫く禁煙していたのだが、近頃は仕事の不安と重圧から逃げるように1日3箱は吸い続けていた。
何かすがるものがなければ仕事の重圧に耐えられなかったのだ。
オレンジ色の血尿が出る程、過酷な状況だった。
それこそ心の休まる時間も無く、
その重圧は心の内壁を深く絶え間なく削り取っていたのかもしれない。

数日前から生涯で初めての激しい肩コリに悩まされていた。
左肩のあたりの妙な固い塊が顔を右に向けるのを邪魔する。
寝違えたような億劫な日々が1週間程続いた。
会社の同僚が気を使って青山にある知り合いの整体院を紹介してくれた。
先週は渋谷の針治療にも行ったが、一時的に痛みは和らぐものの夜にはまたコリに悩まされる。
撮影の仕事が終わり、整体やマッサージに詳しい仕事仲間が
痛みのある肩や右腕をほぐしてくれたが
「う〜ん…すっごいコってますね。。良いマッサージを紹介しますから今度行って下さいよ。」

この仕事が落ち着いたらゆっくり休養しよう。。
そんな事を思い続け半年以上経つ。